「ベントレーのエンジンは、英国クルーの工場でハンドビルドされている」というしばしば聞くフレーズには、基本的には「だから素晴らしい」という後段が付く。しかしハンドビルドまたはハンドメイドとは、各種コンピュータがこれほどまでに発達した現代社会のなかでどんな意味を持っているのだろうか?まさに「ハンドメイドの達人」であるAERO CONCEPTの菅野敬一氏に“真実”を尋ねた。

「ハンドメイドの良さ」「ハンドメイドならではのぬくもり」

しばしばというか、頻繁に耳にするフレーズである。そしてベントレーのクルマもご承知のとおりイングランド北部のクルー工場にて、その多くの部分がクラフトマンたちの“手”によって作られている。

だが――コンピュータを内蔵する各種工作機械の精度が圧倒的に高まっている今、あえて人間の手でモノを作ることに、果たして意味と価値はあるのだろうか?

その答えの一端を知るべく、埼玉県川口市のとある工場を訪ねた。菅野敬一氏の言葉を聞くためである。

長年にわたり航空機のアルミ製構造体を作り続けた精密加工技術と独自のセンスを注入したバッグやケース等のブランド「AERO CONCEPT」を率いる職人、菅野敬一氏。

精密鈑金加工工場「菅野製作所」の三代目。航空機の構造体を製造していたが、バブル崩壊に伴って倒産。だが現在は、世界中のセレブリティから熱望される完全ハンドメイドの自社オリジナルプロダクト「AERO CONCEPT」を展開している“職人”だ。

世界中からオーダーが入るAERO CONCEPTの人気定番商品「CABRIOLET」。「本当に大切な得意先1軒分の資料だけをそこに入れる」ということをコンセプトとした異例の薄さ、そして「航空機の構造体のように穴を穿ち、軽量化する」という大胆な設計、さらには菅野氏の超一流の精密加工技術が結実した一品だ。

ドクターからのオーダーで制作した「手術用のメスや鉗子、ハサミなどを置くためのオリジナルケース」

「ハンドメイドの何が優れているのかって貴方は聞くけど、その言葉というか、前提自体がちょっと違うんじゃないかな――と思いますね」

メカトロニクス、つまり電子回路によって制御される機械が発達している現在も“ハンドメイド”に優位性はあるのか? という質問に対する菅野氏の答えだった。

「モノというのは、本質的にはすべてハンドメイドであるというか、人間が作ってるんですよ。自動化されたメカトロニクスによって作られているモノでも、誰かがその工作機械を設計し、それを使うことを決めたわけですしね。そしてわたしが作っているAERO CONCEPTにしても『完全ハンドメイド』とよく言われますが、当然ですがさまざまな工作機械も使っています。なにもアルミの板をノコギリで切断してるわけじゃない(笑)」

そして重要なのは道具の如何ではなく、何を優先し、その代わりに何を捨てるかという“哲学”なのだと、菅野氏は続ける。

「たとえば何らかのプロダクトに“1本の線”があるとします。その線の美しさを決めるのは『機械を使うか、それとも手で線を引くか?』ではないんです。そんなのはどっちでもいいというか、ケース・バイ・ケースですよ。

そうではなく、決めるのは“考え方”であり“哲学”なんです。その1本の線は、絶対的に美しくなければいけないと考えるのか?それとも生産効率を考慮して『ある程度の美しさでOK』とするのか?線の質を決めるのは、道具ではなく価値観です」

大切なのは道具の如何ではなく、「何を作るか?」と思考すること。そして「何を優先し、何を捨てるのか?」という哲学であると、菅野氏は言う。

腕の立つアルミ鈑金職人の「下請け業者」として重宝されたものの、元請けから言われるがままのハードワークを強いられ、結果として、時代の流れに翻弄され倒産。自死も真剣に考えたという菅野氏はそれ以降、「自分が本当に好きなモノ、自分が使いたいと思うモノ以外は絶対に作らない」と心に決めた。そして、売れるあてなどまったくないまま『AERO CONCEPT』を立ち上げた。

「そうやって始めたAERO CONCEPTだから、機械任せにはできないんです。今の工作機械はものすごく精度が高いけど、決して完璧ではない。最後の1000分の1ミリの調整においては、わたしの“手”のほうが上なんです。だから、ハンドメイドで仕上げている。なぜならば、わたしが『そうしたい! そうじゃなきゃ嫌だ!』と思ってるから。実際の作業を行っているのは工作機械とわたしの手ですが、本質的にはわたしの心が、つまりは価値観と哲学こそが、AERO CONCEPTの本当の意味での“製造担当者”だと言えるでしょうね」

そしてベントレー コンチネンタル GT V8からも、菅野氏は「誰かの意思」を強く感じると言う。

「わたしはクルマ作りの専門家ではないけど、鈑金加工の専門家として言わせてもらうと、特にこのダッシュパネルのあたりの質感と精度は強烈ですね。分野は違えど、同じモノ作りに携わる人間だからわかるのですが、“効率”とか“儲かること”を最大の価値としている集団には、このダッシュパネルは絶対に作れない。

たぶん、イングランドにいる誰かが、『クルマのインテリアはこうでなきゃいけない!こうでないクルマには、わたしは満足できない!』と強烈に思ったんでしょうね。そしてその思いがそのまま、ダッシュパネルに反映されている。……ベントレーというのが高級なクルマであることは当然知っていましたが、まさかここまでの“本物”だとは知りませんでした。いや、恐れ入りましたよ……」

「自動車の内装、こうあるべし」という哲学と、その思考を物質化させるための技術が調和し、そして昇華したベントレー コンチネンタルGT V8のダッシュパネル

極東の達人によるこの賛辞を、英国にいる誰に伝えれば良いのだろうか。現在のベントレーのデザインを統括しているステファン・シーラフか? あるいは草葉の陰にいるはずの創業者、ウォルター・オーウェン・ベントレーだろうか?

わからないが、いつの日か菅野氏の賛辞が然るべき筋に伝わることを、我々は祈念している。

「ベントレー、正直惚れましたよ」と言う菅野敬一氏。